【メディチ銀行】

ジョバンニ=ディ=メディチは、共同経営者の一人としてローマで金融業を営んでいたが、1397年に故郷のフィレンツェに本拠を移し、資本金1万フィオリーナで銀行商会を設立した。これがメディチ銀行の実質的な創設であり、1420年までにローマ、ナポリ、ガエータ、ヴェネツィアなどに支店を設け、事業を拡大していった。当時は他にペルッツィ商会とバルディ商会の方がイタリア外にも支店を持って大きかったが、メディチ銀行は独自の経営形態を組織して、次第に大銀行に成長していった。

 

独自の銀行組織
独自の経営形態とは、単一の会社組織ではなく各支店は独自の資本と帳簿を持つ法的に分離した会社の形をとり、それらをフィレンツェの本部(メディチ邸)にいる総支配人が強力に統括する本社と支社の二重構造であった。それによって一支店の失敗による商社全体の倒産の危険性を回避するとともに分散経営の非効率性の欠点も埋めることができた。銀行幹部にはメディチ家だけでなくフィレンツェの商人も採用された。

 

最大の顧客は教皇庁
メディチ銀行の最大の顧客はローマ支店が窓口となったローマ教皇庁であった。教皇庁からの収益は、1435年までの銀行の年収益の50%をつねに超え、1397~1420年までの純利益は7万9千フィオリーノにのぼっている。当時のローマ教皇庁は大シスマの渦中にあり、メディチ銀行は対立教皇の政治資金に融資し、双方から利益を得た。メディチ銀行は教皇庁の徴税事務や資金輸送を請け負い、ローマ支店長は教皇庁財務管理者に任命されてその財政に深く関わるようになった。

 

<森田義之『メディチ家』1999 講談社現代新書 p.64-79>